天ぷらまんじゅう
紅白饅頭に衣をつけて、揚げた天ぷらまんじゅう
大田市(おおだし)のお祭りに欠かせないものと言えば、「箱寿司」(押し寿司)と「てんぷらまんじゅう」、市内のスーパーなどでもお祭りの季節になるとてんぷらまんじゅう用の紅白饅頭が販売されています。
紅白の饅頭を二つにあわせ、天ぷら衣をつけてあげるだけの至ってシンプルなもので、
島根県内でも大田市以外では、まんじゅうをてんぷらにして食べるところはないようです。また、同じ大田市内でも温泉津地域(大田市西部)では、食べる習慣がありません。
全国にはいくつかてんぷらまんじゅう、或いはあげまんじゅうと言われるものが存在しており、信州、会津、滋賀などがあげられ、これらの地域と大田市を繋ぐものがないか調べたところ、この地域にかつてあった1万石の石見国吉永藩が大きなヒントになりそうなのでご紹介します。
かつて、会津地域に城下町の整備を図って近世会津の基礎を築いたとされる陸奥国会津藩2代藩主、加藤明成がお家騒動を理由に、寛永20年(1643年)5月、幕府に会津40万石を返上し、幕府はこれを受けて加藤家から所領を没収して改易としたが、これまでの功績により、明成の嫡子明友に石見吉永藩(現在の島根県大田市)1万石を与えて加藤家の存続は許したとされています。
しかし、吉永藩は長くは続かず1682年までの39年間で、加藤家が近江水口藩へ加増転封となり廃藩となりました。
また、加藤家に替わり会津藩主となったのが保科正之でした。保科正之は信濃高遠藩主、出羽山形藩主を務めた後、会津藩主となったわけですがここで信州、会津、吉永(大田市)を繋ぐ線が微かに見えてきました。
さて、吉永藩の功績として残されているもののなかに、「桐、油木、櫨(ハゼ)、柿、梅、漆などを領内の荒地に植えさせ、会津より喜兵衛なる名工を呼び寄せて漆器の製造を始めた」と伝えられており、これらのほか、文化や人の交流がありそこから、伝播したのではないかと推察できます。
これにより、てんぷらまんじゅう(あげまんじゅう)は保科正之を通じて、信州から会津に伝播し、会津と交流のあった吉永(島根県大田市)へ伝わったと考えられます。
ただし、これらはあくまでも歴史的な事柄を組み合わせただけの一説です。
ともかく、色鮮やかなてんぷらまんじゅうはお祭りの『ごっつぉ(ご馳走)』の一つとして、これからも大田市民に親しまれ、受け継がれて行くといいですね。