三瓶そば そば畑


【三瓶そばの由来】
 三瓶そばは初秋の朝夕冷え込みの激しい三瓶高原の栽培で始まります。肥沃地を好まず、林業が盛んだった昔は、山林伐採後に焼畑でバラまきで栽培していました。
 
安永2年(1773年)頃より、三瓶山麓で薬用人参の栽培が始まると共に盛んになり、米、あわ、くまごに次ぎ重要な食用となり、祭礼・年越しそば・一家の祝い事などで食膳を賑わしていたと言われています。
 
三瓶地区で最も盛んになったのは、明治10年3月三瓶温泉に入湯浴場ができ、入湯客の食膳にのせたり、明治の後半 三瓶温泉が陸軍演習場になり、酒保(食堂)で売り出し、三瓶そばの名声を高めました。戦後、食糧難の頃はほとんど各戸にそば畑がありましたが、昭和30年後半、食糧が豊かになり農家の老齢化が進む中で、生産者が減少していきました。
 
しかし、近年島根県大田市三瓶町ではそばを取り扱う事業者で「三瓶山そば会議」を開催し、歴史ある三瓶そばの守り手、また後継者を育てる担い手としてネットワークを広げ、「そば」をテーマに地域の発展に取り組んでいます。
 
三瓶山そば会議では、三瓶山そばMAPも作成しており、大田市役所をはじめ、道の駅の情報コーナーなどにございますので、MAP片手に三瓶の雄大な自然を楽しみながら、そばの食べ歩きをしてみてはいかがでしょうか。

 

【島根のスタイル、割子(わりご)そばの起源】
出雲地域では、そばを入れる器として、「割子(わりご)」を使います。戦国時代の武士たちの使っていた弁当箱が起源といわれ、もともとは、四角形の箱だったのが、明治以降に四角は隅が洗いにくい等の理由から丸い容器に代わっていったといわれています。丸い容器を3段に重ねて提供するのが一般的です。