武家屋敷旧河島家とは

 河島家は慶長15年(1610)銀山奉行大久保石見守に召抱えられて以来、銀山附地役人を代々勤めました。主屋は当時の文献などから町並みの大半を焼失した寛政12年(1800)の大火後に再建され、その後、文政8年(1825)までに増築(座敷奥ノ間)されたと推定されます。現存する主屋を平成2年度から2ヶ年にわたり修復し、あわせて塀と庭を復旧しました。
 切米三十俵三人扶持の銀山附役人の住まいを伝える貴重な屋敷であることから、市指定文化財(史跡)に指定しました。

武士の住まい

 河島家住宅の場合、門をくぐると正面に式台のある玄関があって、その脇に大戸口と呼ばれる出入口があります。式台の上手に露地門があって直接座敷に通ることもできます。部屋は庭に面して接客用の座敷があり、生活の場である納戸、つし二階、勝手などは座敷の背後にあります。土蔵、物置、風呂や便所などの付属屋は主屋の背後に配置されていました。大森における上層の武家屋敷は河島家のような屋敷構えが一般的です。

町並みの特徴

 大森の町並みは、武家と町家が混在しています。上層の武家の場合、通りに面して門・塀があって主屋との間に庭を設けています。一方、町家の場合は通りに面して主屋を建てています。

役人の勤めと暮らし

 主屋を再建したころの当主は、五代目徳兵衛、六代目三郎右衛門です。河島家中興の祖といわれる三郎右衛門は文化5年(1808)に父徳兵衛の跡職相続が許され、切米三十俵三人扶持で銀山附役人を申し渡されています。文化7年に山方掛を命じられ、最後は組頭まで歴任し、安政5年(1858)に没しています。
 主屋に使われていた建具の下張りから安政4年に大浦湊(大田市五十猛町)に漂着した異国船に関する文書が見つかっていますが、この時、三郎右衛門は漂着した異国人を長崎まで送り届けたようです。また、三郎右衛門が山方掛を勤めていたころの日誌の一部が見つかっていますが、この日誌を参考にして制作した映像を町並み交流センターで見ることができます。

武家屋敷旧河島家について(外部サイト)